函館中部高校校歌誕生雑話
58期 藤原正樹
白川白楊ヶ丘同窓会東京支部長から中部高校校歌誕生にまつわる話を書いて欲しいとのご依頼あり、引き受けたものの、いざ書くとなると、これが難しい。私は作詞者藤原直樹の長男で昭和31年卒、まことにむかしむかしの話であるが、遠い記憶を呼び起こし、一文を草した次第である。
昭和25年、新教育の理念に従い、男女共学に踏み切り、函館高校から函館中部高校に改称され、今日に至っている。その折に旧制函館中学校校歌では時代にそぐわないとして新校歌を制定しようということになった。たしかに旧校歌の「嗚呼健児務めざらめや」、「帝国の運も負えかし」では女生徒が歌うのに違和感があろう。
当時私は中学一年生、くわしい事情など判るはずもなく、また父親も子供にそのような話をするはずもない。父親が母には話していたものを横で聞いていたものである。狭い陋屋である。何でも聞こえる。旧校歌は旧制第二高等学校教授土井晩翠の作詞、旧制東京音楽学校教授岡野貞一の作曲で当時の著名人に依頼して作ったものである。しかし昭和25年といえば戦後の困窮期、そのような余裕もなく校内で製作しようということになったのであろう。
作詞は国漢教師の藤原直樹、作曲は音楽教師の酒井武雄先生である。作詞の過程で父親が幾度か母親の感想、意見を求めていた記憶がある。ようやく出来上がったが職員会議での審議(?)では、歌詞がおとなし過ぎる、勇壮さに欠けるとの批判もあり、父親が帰宅後母にこぼしていたのを鮮明に覚えている。
いま、この校歌を聞くと文語調があり、おとなしいという感じはしない、どちらかというとやや古風な感じがしないでもない。
何年かはこの校歌が歌い繁がれるのであろうが、やがては古すぎるとして斬新な感覚の校歌が誕生するのであろう。
まことに時代の感覚というものは川の流れのように変わっていくものである。甲子園の高校野球大会で校歌斉唱が放映されるが、数は少ないが中には明るく平明な言葉で時代を先取りした新感覚の歌もある。
私の存命中は今の校歌が歌われようが、そのあとはいったいどのような校歌が登場するのであろうか。
函館中部高校校歌
59期 浜田錬太郎
私は中部高校第59回生、現在齢80歳を数えています。私が函中へ進学した頃は作曲の酒井武雄先生、作詞の藤原直樹先生ともに在職されておりました。
国語は藤原先生に教えを受けました。何かの機会に校歌の火柱のはためく山は函館山である事を先生の言葉として伺ったように記憶しています。
約100万年前に函館山が形成されその後噴火を繰り返しまさに火柱のはためく山が今日の緑豊かな函館山へと変遷されたものと考えられます。
一番残念な事は『風の砂山』は今は何処にも無く、私の少年時代は砂山に登ると綺麗な風紋が鮮やかに見られました。また石川啄木が歌った『初恋』で砂山の砂に腹ばい…と詠んだころはほぼ海岸から地続きでそれは美しい眺めでは無かったかと推量しています。砂山の砂は戦時中から砂鉄会社が掘り出し、私が地方に就職して戻った時にはほぼ全て消えていたことには大きなショックを受けました。
白楊のさやめく…の白楊は洞爺丸台風でほぼその姿が失われこれもとても残念です。
懐かしい木造校舎を取り囲むように太い幹に枝葉をつけた白楊はやはり函中のシンボルでもありました。
校歌の歌詞は勿論そのメロディも純朴な我々函中生には素直に受け入れられたような記憶があります。作詞、作曲に携われたお二人の先生は旧函中から新たなイメージを校歌に注ごうとされ特別な思いで取り組まれたことが歌詞の内容やメロディに現れ今日に至っているものと思っています。
なお、酒井先生は単旋律で校歌を作曲されましたが、後に後任の大森清氏により混声4部合唱に編曲されました。函中の校歌は私のホームページに1番と4番を、またYouTubeにも同様のものをアップロードしています。どうぞお暇を見てご覧頂ければ幸いです。
函館中部高校校歌について
~楽譜の変遷と改訂~(改訂版) 平成31年3月
函館中部高校教諭 79期 山岸久生
1.はじめに
昭和58年4月に教員になって35年間、今まで3月の終業式のたびに退職される先生方を見送ってきました。しかし月日が経つのは早いもので、万に一つの幸運で母校に赴任して5年、ついに私もその時を迎えることになりました。退職に関わって、学叢局から自由な内容で原稿を依頼されました。今回その際に書いた校歌についての文章を拡大して、改めて祖父酒井武雄のこと、そして祖父が作曲した校歌の楽譜とその改訂に関わることについて詳しく書かせていただこうと思います。現在歌われている校歌の楽譜の成立の経緯を、作成作業を担当した者の責任として記録に残しておく必要があると思うからです。
2.祖父のこと
祖父酒井武雄は1906年に札幌市で生まれました。詳しい経歴は別紙(⇒略年譜)で紹介しますが、函館中部高校に勤務していたのは昭和22年~42年の20年間です。祖父には7人の子供がいて、全員音楽の先生または音楽に関わる仕事をしていました。またその孫(私の代)で音楽の先生や演奏家になった者が何人もおり、結婚相手も仕事ではなくても音楽に携わる人が多いという、言ってみれば音楽の家系でした。一族だけで折に触れコンサートを開き、私がデビューしたのは昭和43年夏に開催された「第3回家庭音楽会」。当時私は小学生で、童謡やドレミの歌を歌いました。この時は退職間もない祖父も元気で、挨拶もすべて含めた演奏会の録音が現存しています。祖父は私の幼少時は函館中部高校の音楽教師として音楽部の指導はもとより、函館放送合唱団や自ら設立した聖チェチリア混声合唱団などの指揮を務め、函館合唱連盟の理事長でもありました。またカトリック元町教会でオルガンを弾き、日本語によるミサ曲も作曲しています。母や叔父達からは非常に厳しく怖い人だったと聞いていますが、私は初孫だったので大変可愛がられたため、優しいお爺ちゃんという印象が強く残っています。長女だった母は若い頃から演奏者として祖父から信頼されていて、祖父が中部で教えていた当時、学校祭で一緒に体育館で演奏したこともあったと聞きました。音楽に飢えていて直接演奏を聴く機会のなかった時代でしたから、特にオルガンとピアノの合奏は熱狂的大人気だったそうです。母は自宅でピアノを教えていて家にはグランドピアノがあったので、私は誰から教わるでもなく楽譜の読み方を覚え、自己流でピアノを弾けるようになりました。祖父は作曲家山田耕筰に学び、市内近隣だけでなく遠くは苫小牧の学校までかなりの数の校歌を作曲していました。今はもうなくなってしまった母校愛宕中(素晴らしい校歌でした)も今回統合で青柳中学校になった潮見中もそうです。ここ数年の統廃合で祖父の校歌がどんどん消えてしまっているのは、私のように中高6年間をずっと祖父の校歌で過ごしてきた者にとっては大変残念なことです。現在市内の中学校では深堀中学校校歌が祖父の作曲ですし、他にもまだ何校も残っているはずです。従兄弟の渡辺孝久が祖父の経歴も含めてその詳細なリストを作成しています。
3.楽譜の改訂
(1)中部高校校歌
祖父は中部高校を退職した翌年の昭和43年10月に癌のため62歳で亡くなりました。学校要覧の沿革史には現校歌が披露されたのが昭和24年3月と記録されていますから、作曲したのは昭和22~23年頃でしょうか。母の話では、祖父は書き上げた校歌を母に聴かせて感想を求めたということです。初めて聴いた人は、まず冒頭の同音連続と独特の付点リズムに驚くと思います。やっと音が動いたと思ったらまた同じ音型。しかしその後の「宇賀の浦、風の砂山」で伸びやかで印象的な旋律が歌われます。同音リズムに続いてのこの転換と対比は見事な演奏効果があります。アクセントの効いた力強い「見よや物」を経て、サビの「なべて移ろう 窮みなし」は最高音めがけて低音から1オクターブ以上もダイナミックに上昇します。こんな校歌、聴いたことがありません。おそらく祖父はこの曲を作るに際して、誰でも歌える歌いやすい曲という観念は微塵もなかったと思います。冒頭の付点のリズムと流れるような旋律とを対比させ、最低音から最高音まで11度にも及ぶ広い音域を使って、気合満々で力強く変化に富んだ1曲の音楽として勝負しています。この曲は単なるありふれた歌いやすい校歌などではありません。面白い証言が残っていて、祖父はある演奏会で校歌を弾いた際に何と1番から4番まで全く違う伴奏を付け、最後はピアノ協奏曲のごとき縦横無尽に駆け回る華やかなピアノを弾いたとのこと。母がそれを祖父に言うと「自分の作った曲を自由に弾いて何が悪い?」と語ったそうです。それだけこの曲に愛着を持っていたのでしょう。いかにも祖父らしいエピソードだなと思いました。
5年前私が中部に赴任した時に驚いたのは、何種類もの校歌の楽譜が存在していること、そして和声学上では禁則とされる平行5度や不協和な音のぶつかりなどを含む混声四部の楽譜があって生徒はそれで歌っているということでした。伴奏譜にも不可解な音があり、しかも伴奏譜とその混声四部の楽譜は和声が合わないため、一緒に歌うと音がぶつかる所が何ヶ所かあるのです。後で知ったのですが、この混声四部の楽譜は祖父の後に中部の先生として音楽を教えていた大森清先生が音楽部のために特別にア・カペラで編曲したものでした。あえて使用したという平行5度なども含め、独特の雰囲気を持っています。OBの話では大森先生本人が「これはア・カペラ用で伴奏とは合わないよ」と当時の音楽部の生徒に語っておられたそうです。従ってある年代以上の音楽部OBはこの楽譜がもう完全に体に染みついています。大森先生亡き後音楽部は低迷し人数も激減しました。そして後任の先生退職後十数年の間、中部高校は音楽の専任教諭・専任顧問がいない時代が続きます。そういう流れの中で、本来別々に存在していたはずのピアノ伴奏の筆写譜と音楽部御用達だった大森先生編曲のア・カペラ版合唱譜が、どこかの時点で一緒になってしまったのだと思われます。母の証言からも祖父が書いたのは旋律と伴奏だけの楽譜で、おそらく自分では混声四部の楽譜は作っていていなかったはずです。
そのような経緯がある大森先生の編曲はOBが大切にしている歴史のある貴重な楽譜ですが、中部は入学式・卒業式はもちろんのこと、始業式や終業式でも校歌を歌いますし、白楊祭の一年生の合唱コンクールでは課題曲が校歌の1・4番(4番は混声四部)です。それだけ歌う機会があるのに、楽譜が伴奏と合わないというのは具合が悪いものです。この先120周年記念式典もあることだし、これはきちんと伴奏と合唱が調和するオーソドックスな楽譜を作る必要がある…。そのためにまず最初に私がしたことは、祖父が書いた校歌の自筆譜を探すことでした。作曲者は実際にはどういうハーモニーを書いたのか、そもそも調は何調だったのかなど、自筆譜を見たら解決することがほとんどです。私の知る限り、校歌の楽譜にはニ長調(生徒の手書き)、変ホ長調、ホ長調の3つの調の楽譜が存在します。広く流布しているのは変ホ長調ですが、本校の学校要覧に掲載されている楽譜はホ長調で、かなり細かく強弱記号の指示があります。これは誰の手による物なのかはわかりませんが、美しい印刷譜です。もしかしたら祖父はこの調で書いたのかもしれない…そう思わせるような力強さがあります。興味深いのは、前奏と「窮みなし」に現れるベースの音階下行です。伝承譜と録音された音源ではA♭-G♭-FーB♭-E♭と進行しますが、手書き譜にはGに♭が付いていません。実際に弾いてみてもGの方がストレートな力強さがあります。私はこのG♭は誤りだと判断し、改訂譜では♭をはずしました。おそらく祖父の自筆譜もそうだったと思います。参考までに資料として巻末にこれらの楽譜を付けておきます。
(2)自筆譜はどこに?
中部高校の3階に生徒の知らない「資料保存室」という部屋があります。先生方でもその存在をご存知ない方が何人もおられると思います。ここには中部高校の歴史を刻んだ数多くの資料、様々な記録、アルバム、写真、学叢、周年行事の記念誌と資料、それだけでなく何と昭和50年頃まで使われていたという古い大時計の文字盤や旧体育館の解体材、看板、制帽、更にはかつて実際に使われていた石炭箱まで収められているのです。私は時間を見ては何度かここを探しましたが、結論から言うと自筆譜は見つかりませんでした。(その代わり大森先生が書いたと思われるきれいな筆写譜を見つけました。) 祖父が書いた校歌の自筆譜は一体どこに行ってしまったのでしょう?
バッハなどコピーのない古い時代の作曲家の作品の楽譜は、当時の印刷業者による公的な出版でもされない限り筆写によってのみ伝承されていきます。自筆譜が紛失し筆写譜のみが残されている場合、筆写の際にミスが紛れ込んでいる可能性は十分にありますし、写譜を重ねる毎にその危険性は高まります。また筆写の過程で生じたミスはそのまま書き写されてしまいます。バッハに限らず古い時代の作品の研究において、それが新作が偽作かということも含めて、作曲年代の特定や音の差異、正誤の確認などは、常に演奏家と研究者たちを悩ませてきた問題でした。現在の函中校歌の楽譜も祖父の自筆譜が失われている以上、もはや何が正しいのかを知るすべがありません。先生方や生徒もおかしいと思っていたとしても、歴史の中で伝えられてきた楽譜を改編するということですから、おそらく誰もここに手を付けることはできなかったのだと思います。でもわかっている誤りは直さなければずっと間違ったままですし、どこかで誰かが正さなければその誤りはそのまま伝えられてしまいます。この校歌がこれから先もずっと歌い継がれていくということを考えると、尚更放ってはおけないことです。誰かがその作業をやるとしたら、その責任を負うことができるのは一族の血を引く者しかいないと思います。私が中部高校に赴任できたのは先に書いたように万に一つの幸運ですが、何か見えない力に引き寄せられたような気もしてなりません。亡き祖父がこの仕事をさせるために私を中部に呼んだのでしょうか。
(3)楽譜の改訂
このような経緯から、作曲者の孫であるということを勝手に理由にして、思い切って改訂版の楽譜を作成することにしました。まず伴奏譜で明らかに音の誤りと思われる所を修正し、ハーモニーの主要音で欠損している音を埋め、5月頃からそれを元に混声四部の楽譜を作り直す作業を始めました。調性は広く親しまれている変ホ長調のままにして、生徒に歌わせてみては変えるということを何度か重ねました。ハーモニーは修正した伴奏譜と一部大森先生の楽譜も参考にしながら、ごく標準的なものに近い形にしました。伝えられてきた楽譜にはそれだけの歴史があります。それを尊重しつつ明らかな誤りには訂正を加え、できるだけ個人の色が出ないようにしたつもりです。それでも楽譜に手を入れた責任がありますので、私の名前は伴奏譜の下に小さく(楽譜作成 山岸久生)と入れさせていただきました。さらっと見たら気がつかないかもしれません。結果的に伝承譜に比べるとありきたりの和音になってしまいましたし、パートの配置もこれがベストというわけではありません。しかし最も重要なのは「伴奏と合唱が合っている実用性の高い楽譜」ということです。これらは楽譜作成ソフト〈Finale〉で作成し、創立120周年式典に間に合わせることができました。現在の楽譜は2016年に3回目の改訂をした「2016年改訂版B」です。もちろん主旋律は一音符も変えていません。合唱譜も伴奏譜も作曲の専門家だったらもっといいアレンジになったと思います。しかしそこは楽才のない私の仕事ですので、不十分ではありますが取り組んだという意欲に免じてどうかご容赦いただきたく思います。
4.校歌への思い…誇りを持って歌い切る
中部高校の音楽選択者は、授業では祖父が天国で大喜びしそうな大きな声で校歌を歌います。しかし体育館での始業式や終業式では今ひとつ。体育館が広いからか上級生がいて萎縮するからか…。ただ大きな原因の一つに、音楽選択者は授業で毎時間練習するのに対して、美術・書道の選択者はきちんと覚える機会がないまま卒業していくということがあります。そのため一昨年から4月の最初の芸術の授業で、美術・書道の選択者にもしっかり覚えてもらうため音楽室で校歌の練習をするということを始めました。また、年2回の音楽選択者の合唱発表の2曲目には校歌を歌うようにしています。こうしておけば、ギャラリーで見ている1年生や上級生もその場で一緒に歌うことができます。2年前からは音楽部員が1年生の横で歌うようになりました。入学式では音楽部・吹奏楽部・野球部が新入生の前で校歌をフルコーラスで歌って歓迎します。毎年3月に行われる音楽部の「春の演奏会」では部員とOBが必ず校歌を合唱します。このように1回でも多く校歌を歌う機会を作ろうという取り組みを行っています。写真を付けましたので御覧ください。
歌というものは今の世代から次の世代へと歌い継がれ愛されていくことに、その意義と存在価値があります。函館中部高校の校歌は日本一の校歌です。平成27年に行われた創立120周年式典の際には、世代を越えて全国から集まった多くの卒業生、現役生徒、教職員、保護者など1000名を越える人たちがこの曲を歌い、その声は体育館中に響き渡りました。藤原直樹先生の雄渾な歌詞と相俟って、今もなお多くの卒業生に愛されている幸せな曲だと思います。現函中生にはぜひこの曲に誇りを持って堂々と歌い切り、胸を張って伝統ある中部高校を卒業して行ってほしい…それが作曲者の孫として思い出深い母校で退職を迎える私の最後の願いです。 (以上平成31年3月筆/「学叢」原稿の改訂版)
※付記:今年3月で定年退職を迎えましたが、幸い現在再任用教員として4月以降も中部高校に継続勤務しております。今年の新入生も、4月に美術・書道選択者も全員校歌指導を行いました。音楽選択者は5月中旬まで毎回授業の最初に歌っています。この先いつまで母校に勤務できるかはわかりませんが、自分に残された期間、祖父が残した函中伝統の校歌をしっかり次の世代へと伝えていく仕事に力を注ぎたいと思います。